だらしない一面を持ちながらも世界で活躍した医師・野口英世の格言

感染症の研究に命をかけた野口英世の格言とソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』主催者の嶋村吉洋氏からの学び原理原則

今回は、1900年ごろから世界を舞台に活躍し、千円札の顏としてもおなじみの医師・野口英世の格言を紹介していきます。

『家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。』

感染症の研究に命をかけた野口英世の格言とソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』主催者の嶋村吉洋氏からの学び

幼いころの大ケガをきっかけに医師となり、人生を好転させた野口の物事の捉え方を、ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者である嶋村吉洋氏からの学びとともに紹介していきます。

医師を目指すきっかけ

1876年、福島県に生まれた野口は1歳のころに囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負います。

その後小学校に入学するものの、左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭され、勉学に励むようになりました。
野口は優秀な成績で小学校を卒業し、高等小学校(現在の中学1年・2年に相当)に進学します。

高等小学校で自身のことを作文にする課題が出たときに、野口は自身の左手のために辛い思いをしたことを書き、「一度でいいから、左手を動かしてみたい」と訴えました。
その作文に心を動かされた教師や友人が左手を治すための手術費用を集める募金を実施し、そのお陰で野口は手術を受けることができるようになります。

当時、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎のもとで左手の手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになりました。
野口はこの手術の成功に感激し、医師を目指すことを決意します。

辛い過去を乗り越え、医師を目指すことで将来の展望が見えた野口は、後に下記の格言を残しています。

『過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。』

野口英世の意外な一面

1896年、野口は高等小学校卒業後、手術をしてくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたり医学の基礎を学びました。
医学以外にも英語やドイツ語、フランス語を学び、片手にはいつも専門書をもち、時間があれば読書をしていたそうです。

その後、高等小学校の教頭であった小林栄から40円(現在価格約80万円)もの大金を借りて上京、医師免許を取得するために必要な医術開業試験を受験します。

前期試験に合格するものの、この辺りから野口の意外な一面がたびたび現れるようになります。

野口はお金を手にするとすべてお酒と遊郭につかってしまうとんでもない浪費癖を持っていたのです。

このときにも、せっかく借りたお金を2ヶ月でつかいきり、下宿からの立ち退きを迫られます。
そんなときに力を貸してくれたのが会陽医院で学んでいたときに知り合った高山高等歯科学医院の講師・血脇守之助でした。

血脇は野口の6歳上で、野口の才能にほれ込み、よく面倒をみてくれていました。
住む場所がなくなった野口をみて、自分が働いていた病院の院長に高山高等歯科学医院の書生として雇ってもらえるようかけあいましたが、院長に断られてしまいます。

結局、野口は血脇の一存で非公式に高山高等歯科学医院の寄宿舎に泊まり込むことになりました。

同年、野口はドイツ語の学習のために学費を得たいと考え、血脇に相談しますが、月給4円の血脇には学費を捻出できませんでした。
すると野口は血脇に院長に昇給を交渉することをすすめ、その結果、血脇の給与は月給7円となり、ここから学費を得ることができました。

なんとも強引な作戦ですが、野口には目標達成のためには手段を選ばないというもうひとつの意外な一面もあったようです。

医術開業試験の後期試験でもその力がいかんなく発揮されます。

後期試験は、実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能であったため、医療開業試験予備校へ通う必要がありました。
その資金を得るために、再び血脇に策を与え、院長と交渉させます。
すると、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、野口自身は月額15円もの援助を受けられるようになりました。

野口はこうして学費を得て、後期試験にも合格し、21歳にして医師免許を取得しました。

千円札の顏になるようなひとがこんな破天荒な人生を歩んでいたのは驚きですが、それでも合格するのに10年はかかるとされる試験を1年で合格して医師になっているところをみると、目標達成力の高さを感じます。

医師としての経歴

野口は医師免許を取得し、臨床医ではなく基礎医学研究者の道を歩み始めます。

はじめの就職先は北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所でした。
ここでは研究には携わりませんでしたが、語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、通訳、および研究所外の人間との交渉を担当しました。

そこから半年後には横浜港検疫所検疫官補となります。
横浜港に入港した『亜米利加丸』の船内でペスト患者を発見・診察しました。
検疫官補としての働きが認められた野口は、清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省から要請のあった国際防疫班に選ばれました。

ここでも野口は支度金96円を酒と遊郭で使い果たし、資金を血脇に工面してもらっています。

半年間の任期終了後、国際衛生局ロシア衛生隊の要請を受けそこでも半年間任務にあたりました。

1900年、『義和団の乱』により清国の社会情勢が悪化し、野口は日本へ帰国しました。
その年に箱根の温泉地で知り合った斎藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取付けます。

その婚約持参金300円をアメリカへの渡航費にあてる予定でしたが、またしても送別会で調子に乗り、お金を使い果たし、血脇に渡航費用を工面してもらっています。

北里の紹介状を頼りにペンシルべニア大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究をおこない、高い評価を受けました。

1903年にはコペンハーゲンのデンマーク国立血清研究所に留学し、翌年からはロックフェラー研究所に移籍します。

1905年には斉藤ます子との婚約を破棄し、血脇に婚約持参金300円を準備してもらい、斉藤家に返済するなどの事件はありましたが、医師としての成果は順調にあげていきました。

1911年には『病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功』と発表し、世界の医学界に名を知られることになります。
この年の4月には、アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しています。

1914年には東京大学より理学博士の学位を授与され、ロックフェラー医学研究所正員に昇進しました。
そして、これまでの活動が認められ、ノーベル医学賞候補に選出されます。

1915年には母が一生懸命書いた手紙に感動し、15年ぶりに日本へ帰国します。
このとき、お世話になった恩師の小林栄や血脇守之助、古くからの親友に懐中時計を贈ったそうです。
またこの年は、母と小林とともに講演旅行をし、三重、大阪、京都などを見物し、2度目のノーベル医学賞候補にもなりました。

このときの日本への帰国が最後の帰国となった野口でしたが、お世話になった多くの方に恩返しを果たしました。

そんななか、アメリカへ帰国した野口は、ロックフェラー財団が掲げる黄熱病撲滅計画に参加します。
当時、南米で発生した伝染病の黄熱病にはワクチンがなく、ワクチンの開発が急務でした。

1918年、エクアドルへ派遣された野口は9日後に病原体を特定することに成功し、この細菌をもとに野口ワクチンを開発し多くの命を救いました。
しかし、1927年、アフリカで猛威を振るっていた黄熱病に野口ワクチンの効果が発揮されませんでした。

実は、南米で開発した野口ワクチンは、黄熱病ではなくワイル病のワクチンだったのです。
野口は「そんなことがあるものか!」とアフリカへ向かいますが、研究結果を出せないまま自身も黄熱病にかかってしまいます。

1928年、野口は「わたしには、分からない」という言葉を遺して、51年の人生に幕を閉じました。
実際に黄熱病のワクチンが完成するのはここから9年後のことでした。

野口は意外な一面を持ちながら、失敗や間違いも多い人物でしたが、医学者として世界を救うために尽力した偉人であることは間違いありませんでした。

さいごに:嶋村吉洋氏からの学び

ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者である嶋村吉洋氏は、今回とりあげた格言と共通する価値観を持たれています。

講演会などでも、

「人生は捉え方によって大きく変わる。自分がいま得ている結果の原因はすべて自分である。」

ということや、

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。」

という話をされており、厳しさを感じる一方で、自分さえ変えることができれば自分の人生も大きく変えられる可能性があることを、常にご自身の背中で証明してくださっています。

ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』には、自分の理想に向けて自分を変化させようとチャレンジされている方がたくさんいます。

自分ひとりではなかなか自分を変えられないと思う方はこのような場の力を借りるのもいいのではないでしょうか。

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