先日、北京2022年パラリンピックが閉幕しました。
同時期に戦争や感染症など大きなニュースがたくさんあり、あっという間に終わってしまった感覚が強いです。
ウクライナ選手の活躍が多く取り上げられるなどいつものパラリンピックとは少し雰囲気の異なる大会だったのではないでしょうか。
以前、『近代オリンピックの父』と呼ばれるピエール・ド・クーベルタンの格言を取り上げましたが、今回は、『パラリンピックの父』ルードヴィヒ・グットマンの格言を紹介していきます。
『失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ』
【出典】笹川スポーツ財団/ルートヴィヒ・グットマン 中村裕裕 歴史をつくった二つの足跡
今回はパラリンピックの歴史を振り返りながら、この格言やパラリンピアンの言葉からの学びと、ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』主催の嶋村吉洋氏からの学びを紹介していきます。
パラリンピックの歴史
パラリンピックの第1回大会は、1960年に開催されたローマ大会でした。
しかし、パラリンピックの起源はさらにさかのぼります。
1948年7月28日、ロンドン五輪の開会式と同じ日に、イギリスにあるストーク・マンデビル病院で、車椅子を使用する入院患者を対象としたアーチェーリー競技会が開催されました。
パラリンピックの起源とされるこの大会は、1939年にナチスによるユダヤ人排斥運動により、イギリスに亡命した医師ルートヴィヒ・グットマンにより開催されました。
開催地となったストーク・マンデビル病院には、ドイツとの戦争激化により負傷し脊髄損傷になる兵士が急増することを見越し、脊髄損傷科が開設されていました。
この科長に任命されていたのがグットマンでした。
少し話がそれますが、わたしは、戦争が激化することで、脊髄損傷の兵士が増えるという想定をしなければならないという事実に、戦争の恐ろしさを改めて感じました。
話を戻すと、グットマンは、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして「手術よりスポーツを」と提唱し、スポーツを取り入れていました。
グットマンは1948年の大会開催時にはすでに「将来的にこの大会が真の国際大会となり、障がいを持った選手たちのためのオリンピックと同等な大会になるように」という展望を語っています。
この大会は毎年開催され、1952年にはオランダの参加を得て国際大会へと発展し、これが第1回国際ストーク・マンデビル大会となりました。
1960年には、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスの5ヶ国により国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)が設立され、グットマンがその初代会長に就任しました。
このときISMGCは、オリンピック開催年に実施する大会だけは、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施する意向を表明しています。
そして同年、オリンピックの開催されたローマで国際ストーク・マンデビル大会が開催され、1989年に国際パラリンピック委員会設立後、第1回パラリンピックと位置づけられました。
ちなみに『パラリンピック』という名称は、『Paraplegia(対麻痺者)』の『Olympic』という発想で第2回パラリンピックである東京大会の際に日本で名付けられた愛称でした。
1985年に正式に『パラリンピック』という名称が採用されますが、そのときには対麻痺者だけではなく、身体障がい者の国際大会になっていたため、『Para(並行)』+『Olympic』と解釈されるようになりました。
パラリンピアンの言葉から学ぶ捉え方
パラリンピアンのエピソードを見ていると物事の捉え方のポジティブさに驚かされます。
陸上男子走り幅跳び選手の山本篤氏は、17歳のときにバイク事故で左脚大腿部を切断しました。
大きなケガで左脚を切断しなければならないと知った場面で、山本氏は下記のように考えていたと話しています。
「べつにあまり深くは考えてなかったです。脚がなくなったらなにもできなくなる、というイメージは持っていなかった。むしろ、脚がなくなってもスノボはしたいな、っていうことを考えていましたね。」
まさに、今回取り上げた格言のとおり、失ったものではなく、残されたものでなにができるかを考えられており、前向きで素敵な考え方だなと感じました。
ちなみに、山本氏は2013年IPC世界陸上競技選手権で金メダルを獲得、2016年リオパラリンピックでは走り幅跳びで銀メダル、400メートルリレーで銅メダルを獲得しています。
2017年10月にはプロアスリートとして活動を開始し、2018年の平昌パラリンピックではスノーボード日本代表選手として出場を果たし、「スノボはしたい」と考えていた当時の想いを高いレベルで実現させています。
また、陸上女子短距離ランナーである重本沙絵氏にもこんなエピソードがあります。
日本体育大学在学中に監督から
「パラリンピックで陸上選手としてメダルを目指さないか?」
と提案されたとき、重本氏は下記のように考えていたそうです。
「大学でもハンドボール部のレギュラーだったし、それまで、ほとんどのことが健常者と一緒にできてきた人生を送ってきて、(当時は)なんでわたしが今さら『障がい者』っていうくくりに、自ら入らないといけないのか理解できなかった。
できないことなかないし、むしろ他人よりできることのほうが多いしって。」
わたしたちは勝手に「障がい者の方は出来ることが限られている」という前提を持っているかもしれませんが、決してそんなことはないということに気付かされます。
実際に重本氏は小学校、中学校、高校とかけっこはすべて1位、高校時代にはハンドボールで総体ベスト8といった成績を残されています。
さいごに:嶋村吉洋氏からの学び
ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者であり映画プロデューサーでもある嶋村吉洋氏は先日の講演会で、
「事実はひとつ、解釈は無数」
とおっしゃっていました。
ケガをして体の一部を失ったり、生まれつき障がいを持っているという事実はひとつですが、そのことをどう捉え、どう行動していくかはそのひと次第であり、その捉え方次第で人生は大きく変わります。
この価値観を知っているかどうかが人生に与える影響は大きく、よりよい人生にしていくためには自分の捉え方、選択に責任を負うことが非常に重要だと感じます。
わたしも事実と解釈を区別し、自分の人生に効果的な解釈をできるように心がけていきます。