オリンピックで活躍した方々の格言

オリンピック 五輪 旗 ワクセル主催者 嶋村吉洋氏のプロジェクト原理原則

ついに東京五輪が開幕しました!!

感染症の影響もあり開催自体に賛否の声もありましたが、多くの人が尽力し、開幕にこぎつけ、日本勢の頑張りもあって盛り上がってきているのを感じます。

今回は特別編としてこれまでのオリンピックで活躍した方々の格言を紹介していきます。

「近代オリンピックの父」ピエール・ド・クーベルタン

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『スポーツを通じて世界は一つになる。』

「近代オリンピックの父」といわれるフランス人、ピエール・ド・クーベルタンが残した格言です。
愛国主義者であった彼は、フランスの教育を改革するために当時毛嫌いしていたイギリスに留学に行きます。

しかし彼は、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、たちまちイギリス贔屓になってしまいました。
そして、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある。」と確信しました。

当初は「自国の教育改革のために」スポーツを取り入れる必要性を感じていたクーベルタンでしたが、次第にスポーツを通じて「国際交流」や「世界平和」を成し遂げられるのではないかと考えるようになり、「国際的競技会」の構想をふくらませていきます。

1894年6月、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議で、クーベルタンは、オリンピック復興計画を議題に挙げました。
すると満場一致で可決され、第1回大会は、1896年、古代オリンピックの故郷オリンピアのあるギリシャで開催すること、古代の伝統にしたがって4年ごとに開催すること、大会は世界各国の大都市での持ち回り開催とすることも採択されました。

実はオリンピックのシンボルとして知られる五輪のマークも、後にクーベルタンが考案したものです。5つの輪は5大陸の結合をあらわしています。

この格言はオリンピックの開催に尽力したクーベルタンの願いともいえます。

【参考】公益財団法人 日本オリンピック委員会『クーベルタンとオリンピズム』

人類初100m10秒の壁を超えたカール・ルイス

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『誰かがやるはずだった。自分がその誰かになりたかった。』

オリンピックで9個の金メダルと1個の銀メダルを獲得し、歴史に燦然と輝く結果を残したカール・ルイス。
彼の偉業は100m走で10秒の壁を超えたことでした。
しかし、彼よりも先に100m走で10秒の壁を越えた選手がいたことをご存知でしょうか。

それ以前の歴史をみると、カール・ルイスより以前に100m走で10秒の壁を越えた選手が2人いました。
1964年東京五輪で9秒9を出したボブ・ヘイズと1968年のメキシコ五輪で9秒95を出したジム・ハインズです。

はじめて記録に電気時計を用いたこの大会で、ボブ・ヘイズは準決勝で9秒9を叩き出しました。
しかし、5.2mの追い風と判定され、このタイムは公認されませんでした。

次の大会であるメキシコ五輪では、ジム・ハインズが9秒95を出し優勝を飾りました。
開催地が空気抵抗が少なく有利とされる高地での記録であったため、電気時計を用い、平地で10秒の壁を超えたはじめての選手としてカール・ルイスが認知されています。

カール・ルイスは1968年のメキシコ五輪から15年後の1983年の「S&Wクラシック」という大会で9秒97を出しています。

彼が10秒の壁を超えたことは大きな意味を持っていました。
カール・ルイスが1983年に10秒の壁を超えてから、9秒台を出す選手が数多く出てきたのです。

8年後の1991年に東京・国立競技場でおこなわれた第3回世界陸上競技選手権大会では、カール・ルイスが9秒86の世界新で優勝しましたが、6位までの選手が9秒台をマークするなど一気に100m走の記録の基準があがっているのが分かります。

ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者である嶋村吉洋氏はご自身の講演会やトークセッションで「突き抜けるひとの存在が大事」だと話されます。
突き抜けた記録をつくるひとがいることで、「自分もできるかもしれない!」という前提がうまれ、その記録を破る人が次々とあらわれてくるとのことでした。

カール・ルイスのこの格言から、カール・ルイス自身も最初に9秒台の記録をつくる価値を感じていたことが伝わります。

【参考】読売新聞オンライン『最速の歴史 10秒の壁』

柔道界で史上初のオリンピック3連覇を成し遂げた「天才柔道家」野村忠弘

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『自分自身を裏切らないような戦いだけを目標にするだけだ。』

1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪、2004年アテネ五輪で柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成した野村忠宏氏。

彼は柔道一家に生まれ幼少期から柔道に触れて育ちました。
しかし、意外なことに柔道のスパルタ指導を受けていたわけではなく、祖父や父親からは礼儀の部分を厳しく指導されていたそうです。

野村氏は幼少期から身体が小さく、大学1年時まではそれほど強い選手ではありませんでした。
体が小さかったために軸になる技として背負い投げを教わり、その技を磨き続けてきました。
「この背負い投げを磨き続ければ俺は絶対に強くなれるんだ」と信じ続け、練習に励んでいたそうです。

野村氏が結果を出しはじめたのは大学2年のときでした。
はじめて出場した関西選手権で準優勝し、そのまま全日本で優勝したのです。
その試合がアトランタ五輪の代表選出につながり、そこからオリンピック3連覇の伝説が始まりました。

野村氏のこの格言から、勝てない時期も、「天才柔道家」と呼ばれるようになってからも自分自身と戦い続けてきたことが伝わります。

前述の嶋村氏も「自分との約束を守ること、自分自身を裏切らないこと」の大切さを伝えてくださいます。
「人との約束を守る人は多いけど、自分との約束を守っている人は少ない。誰からも見られていないところで自分自身との約束を守ることで成長する。」とおっしゃっています。
「他人との約束を守ると信頼が生まれ、自分との約束を守ると自信が生まれる。」
約束を守ることの重要性をあらためて学びました。

【参考】ホームメイト『柔道チャンネル』

日本競泳の時代をつくった北島康介

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『誰もひとりでは生きられないし、ひとりでは戦えない。仲間がいてくれるからこそ、今の自分がいる。そう思える時、僕はいつも以上の力を発揮できるような気がする。』

2004年アテネ五輪、2008年北京五輪の2大会連続2冠を達成し、日本の競泳界を引っ張ってきた北島康介氏。

北島氏の日本競泳界にもたらした功績は非常に大きいものでした。
北島氏は2002年の世界選手権で、200m平泳ぎの世界記録を樹立しました。
日本人が世界記録を出したのは、1972年ミュンヘン五輪100mバタフライの青木まゆみ氏以来、30年ぶりのことでした。

北島氏が世界記録を出したことで日本の選手たちがこぞって「世界記録」を目標に掲げるようになりました。
カール・ルイスの格言でも触れた、「突き抜けるひと」が日本競泳界では北島氏だったのです。

また、影響を与えたのは個人の成績だけではなく、チームワークという面でも大きな影響を与えています。
それまでの競泳の日本代表チームは、さまざまなスイミングクラブのトップ選手が集まった即席チームであり、今では当たり前にみられる選手同士でお互いに励まし合ったりする光景は見られませんでした。
そんななか、競泳日本代表のヘッドコーチであった上野コーチが「チームで戦う」ことを提唱し、その文化を形成するなかで、長く代表チームをけん引したのが北島氏でした。

北島氏はチームメイトからも国民からも愛される選手でした。
とある雑誌で今年特集された『夏季オリンピックの名言歴代ベスト10』では、1位に「チョー気持ちいい」、4位に「なんも言えねえ」が入っており、北島氏の人気の高さを表しています。

また、2012年のロンドン五輪では北島氏と一緒に男子400mメドレーリレーで銀メダルを獲得した松田丈志氏が「康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」というコメントを残しており、チームの真んなかに北島氏の存在があることが分かります。

この格言の価値観があるからこそ、仲間を大切にし、愛される存在になっていることが伝わってきます。

【参考】Sportsnavi『日本はいかにして競泳大国になったのか?~北島康介とその時代~』

不屈の精神で輝き続ける「火の玉ストレート」藤川球児

嶋村吉洋氏主催のワクセルのトークセッションに参加した藤川球児氏

【出典】ワクセル 藤川球児

『”好きなことを仕事にはしないほうが良い”と言う人もいるけど、好きなことを仕事にしても好きなままでいられるのは、そのために苦しさや抗うことを受け入れられるからだろう』

『ワクセル』のトークセッションに登壇された藤川球児氏もオリンピックで活躍されたスポーツ選手のひとりです。
藤川氏は2008年の北京五輪に参加し、準決勝進出という結果を残されています。

予選リーグではリリーフとして登板し、自責点0。
準決勝の韓国戦でもリリーフとして登板しましたが、同点に追いつかれる1点を許しています。

藤川氏はこのときの経験を、「人生勉強」し、「成功、失敗を含めて、あの緊張感の中で経験したことが今の人生に生きている」と話されています。

格言にもあるように、順風満帆ではない野球人生のなかで、すべてを受け入れて自身を成長させてきたことがこの言葉からも伝わります。
21年間にわたり、プロ野球選手として活躍を続けてきた藤川氏が発した言葉だからこそ重みのある格言だと感じます。

さいごに:嶋村氏からの学び

今回、オリンピックで活躍された方々の格言をみてきましたが、嶋村吉洋氏からの学びはトップアスリートの価値観とも通ずるところがあり、どのジャンルでも結果をつくるのに大切なことは変わらないということをあらためて学びました。

ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』のトークセッションではスポーツ関連のゲストが来られることが増えてきています。
今後のコラボレーションが非常に楽しみです。

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