今回は、日本人としてはじめてノーベル賞を受賞した湯川秀樹の格言を紹介します。
『一日生きることは、一歩進むことでありたい』
科学者として、志高く日々改善を繰り返してきたからこその格言だなと感じます。
この格言からの学びと、それに関連してソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者である嶋村吉洋氏からの学びを紹介していきます。
日本人初のノーベル賞受賞
湯川秀樹は1934年、27歳のときに『中間子理論構想』を、翌年には『素粒子の相互作用について』を発表し、中間子の存在を予言しました。
中間子とは、簡単に表現すると原子核のなかにある中性子と陽子を結びつける粒子のことです。
この大胆な仮説に周りの反応は冷ややかでした。
2年後に量子論の開拓者であるボーアが来日した際に評価をあおぎましたが、理論は認められませんでした。
湯川は失望しますが、1937年に米国のアンダーソンが宇宙船の観測で中間子と思われる粒子を発見したいうニュースがもたらされます。
このことにより中間子論は一転して世界の注目を集めます。
湯川は国際学会に招かれますが、第二次世界大戦の勃発で会議は中止となります。
しかし、湯川は欧州から米国へ渡り、アインシュタインと議論を交わし中間子論への自信を深めます。
そして、1947年にセシル・パウエルらがパイ中間子を発見することで、湯川の予言が15年の歳月をかけて証明され、1949年にノーベル物理学賞を受賞します。
日本人初のノーベル賞受賞のニュースは、物理学の功績だけではなく、第二次世界大戦に敗れ、GHQの占領下で自信を失っていた日本国民にとって希望の光となりました。
湯川秀樹の捉え方
湯川のさまざまな格言をみていると、ロマンチストで科学を愛していたことがとても伝わってきます。
わたし自身の話をすると、高校から理系のクラスで、大学では無機化学の研究室に入り、大学院まで研究をしていたので、湯川の格言に共感できる部分が数多くありました。
科学の世界では結果が出るまでに長い年月をかけることが多々あります。
仮説を立て、それを証明するためにさまざまな実験をするのですが、長い年月をかけても、思ったような結果が得られないことのほうが多い世界です。
湯川は、「科学研究も人間の知的好奇心にもとづく創造であって、芸術やその他の文化活動と同じものだ。」と語っており、その過程をも楽しんでいたことが伝わります。
また、湯川は「科学の歴史は裏から見れば失敗と停滞の歴史でもある。しかし早い段階での失敗がなかったら、成功も飛躍もなかったであろう。」と語っており、うまくいかないことも失敗と捉えず、うまくいかないことが分かったというひとつの進歩だと捉えていたようです。
世界的な発明家のトーマス・エジソンもやはり同じ価値観を持っていました。
さいごに:嶋村吉洋氏からの学び
以前、嶋村氏がトークセッションで「どういう人が成果をつくりますか?」という質問を受けて、「素直で謙虚に学び続ける人」と答えられていました。
嶋村氏は大きな結果をつくられた今でも毎日読書をし、多くの方と出会い、学び続けることを実践されています。
主催者の嶋村氏の影響か、ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』には素直で勤勉な方がとても多い印象を受けます。
このような場で学べること、さまざまな経験を積めることは非常にありがたいなと感じています。