今回は、セ・リーグを制し、日本シリーズでもオリックス・バッファローズと死闘を繰り広げた『東京ヤクルトスワローズ』の高津臣吾監督の格言を紹介します。
『指導者として僕が考えていることは「選手の手は引っ張るが、足は引っ張らない。背中は押すが、頭は押さえ込まない。」』
【出典】中日新聞web
現役時代にも日本一を獲得し、監督としても日本一を達成している高津氏の考え方や格言からの学びを映画プロデューサーであり12月に書籍の出版が決まった『ワクセル』の主催者でもある嶋村吉洋氏からの学びとともに紹介していきます。
高津氏が選手として日本一になるまでの経緯
高津氏は広島工業高校時代の1986年に春夏連続で甲子園に出場しています。
高校卒業後、亜細亜大学に進学し、東都大学野球リーグで1990年に春秋季連続優勝を飾り、同年の全日本大学野球選手権大会でも優勝を飾りました。
大学卒業後、広島出身の高津氏は広島東洋カープへの入団を希望しますが、横手投げの投手はとらないといわれ、1990年度のドラフト会議で3位指名があったヤクルトスワローズに入団します。
高津氏は、入団当初は目立つ選手ではなかったそうです。
当時のヤクルトスワローズは野村克哉が監督を務めており、1992年の秋季キャンプで野村監督から「150キロの腕の振りで100キロの遅いシンカーを投げろ」と習得を命じられ、遅いシンカーを習得したことが大きな転機となりました。
チームは1992年と1993年にリーグ優勝。
シンカーを覚えた高津氏は1993年に当時の球団記録を塗り替える20セーブを挙げると、日本シリーズでも3セーブを挙げ日本一に輝き胴上げ選手となりました。
高津氏は1995年、1997年、2001年にも日本一を獲得します。
2001年には自己最高の37セーブを挙げ、日本シリーズでは4度目の胴上げ投手になりました。
2003年に通算セーブ数のプロ野球記録を更新すると、翌年からメジャーリーグへと活躍の場を移します。
挫折をあじわいながらも監督として再度日本一へ
メジャー1年目はシカゴ・ホワイトソックスと契約し、クローザーとして24試合連続無失点を記録し、19セーブを記録するなど華々しいデビューを飾りました。
しかし、2年目以降成績が振るわず、メジャーリーグだけでなく、韓国や台湾などのリーグも渡り歩きます。
2012年に独立リーグの新潟アルビレックスBCで選手兼監督を務めると、その年に現役を引退しました。
その後、2014年から東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチに就任、二軍監督を経て、2020年からは一軍監督を務めています。
2020年は投打ともに振るわず最下位に終わりますが、2021年には日本シリーズを制し、優勝を果たします。
東京ヤクルトスワローズが日本一を達成するのは自身が選手時代に日本一を達成した2001年以来、実に20年ぶり6度目の日本一でした。
2022年は、セ・リーグを連覇し、日本シリーズでは惜しくもオリックス・バッファローズに敗れましたが接戦を繰り広げるなど、安定した強さをみせています。
勝利のための周到な準備
高津氏は試合前に必ず自分自身にかける言葉があるそうです。
それは『絶対大丈夫』という言葉です。
ポジティブな言葉を自分にかけることをアファメーションといいますが、高津氏はアファメーションで自分のメンタルを整えて試合に臨んでいました。
周到な準備をしていることが今の結果の原因となっていることが分かります。
また今回の格言にもあるように、高津氏は選手の自主性を重んじ、裁量をもたせることで選手の成長を促すことを意識されています。
なにからなにまで教えるわけではなく、放任するわけでもなく、自分がチームのリーダーになるときには意識したい考えです。
さいごに:嶋村吉洋氏からの学び
映画プロデューサーであり『ワクセル』の主催者でもある嶋村吉洋氏もチームを育てるうえで同様の考えを持たれています。
以前の講演で、必要のない失敗は極力しないように、必要な失敗はどんどんできるように考えてチーム作りをされているとうかがいました。
12月に出版される書籍のなかにもチーム作りの価値やチームをつくるうえで大切にされていることがふんだんに盛り込まれていると思われます。
わたしもチームのリーダーを務めることが増えてきましたが、チームメンバーが思いついたことはどんどんチャレンジさせながら一緒に成長できるチームをつくっていきたいと感じました。