今回は、お笑い界では『お笑いBIG3』として知られ、映画界では監督として世界的な成功を収め『世界の北野』と称賛されている北野武氏の格言を紹介していきます。
『必死にやってもうまくいくとは限らなくてどうにもならないこともある。それが普通で当たり前だってことのほうを教えるのが教育。』
北野氏の母親は教育熱心であったことが知られています。
母親の影響を大きく受けつつも、母親の敷いたレールにあらがってきた北野氏の教育に対する格言はとても興味深いです。
今回は、北野氏とその母親のエピソードにもふれながら、この格言からの学びを、ワクセルの主催者である嶋村吉洋氏からの学びとともに紹介していきます。
世界の北野の経歴
北野氏は教育熱心な母親のおかげもあり、学校の成績は優秀で、高校卒業後は明治大学工学部機械工学科に現役合格します。
しかし、大学での生活には適応できず、大学2年のときに家出同然にひとり暮らしをはじめ、新宿界隈で当てのない日々を送るようになりました。
のちに大学を親に内緒で中退し、中退後にアルバイトを転々としながら、フランス座、松竹演芸場などの舞台に出るようになり、徐々に顔を知られるようになります。
そして、ついにはテレビ出演するようになり、人気を得るようになったのです。
北野氏はのちに当時のことを、
「大学を辞めてサラリーマンになることを拒否したっていうのは、俺にとっては手錠を外したようなもん。生まれてはじめての反抗で、おふくろの呪縛が解かれたみたいだった。」
「おふくろは内職して、昼はヨイトマケやって、夜はブリキのおもちゃ作って、大学行かせたんだから。食いものまで制限して頑張った母ちゃんを裏切るのは心が痛んだ。でも、その期待を裏切って芸人になるんだから、俺も相当なもんだ。」
と語っています。
1972年にビートきよし氏とともにツービートを結成、その4年後には空前の漫才ブームが訪れました。
1988年には『タモリ・たけし・さんま BIG3 世紀のゴルフマッチ』という番組が放送され、『お笑いBIG3』と呼ばれるようになります。
1989年には『その男、凶暴につき』で映画監督デビューを果たします。
最初はヒットとは無縁の作品ばかりでしたが、1996年に『キッズ・リターン』でカンヌ映画祭監督週間正式作品に選出されます。
その翌年の1997年には『Hana-Bi』がヴェネチア映画祭金獅子賞を受賞し、世界の巨匠の仲間入りを果たしました。
その後も世界的に評価の高い作品をつくり続けられています。
チャレンジする文化
北野氏は大学に入学したところから大きく方向性を変えて、お笑いの道へ進みました。
そしてお笑い界で大きな成果をつくったのちに、そこにとどまるのではなく、映画監督の道にも進まれていきました。
このような経歴の根本には、この格言の価値観があるのだろうと感じました。
日本は特に、「失敗をしないことが大事」という文化が色濃く残っているといわれます。
学校の教育でも、正解するのが当たり前で、間違えると怒られるという教育がされ、特にSNSが発達している現代では、なにか失敗をするとSNSで叩かれるなど、失敗したときにリカバリーするのに非常に体力をつかいます。
北野氏の格言のように、必死にチャレンジすること自体が大承認で、うまくいったらほめられるような文化が日本にも根付いていけばいいなと感じます。
こども想いの母親とのエピソード
少し話がそれますが、北野氏と教育熱心であった母親とのエピソードを紹介します。
しつけに厳しく、北野氏が大学を中退したときには「勘当された」という厳しい母親ですが、北野氏が芸人として売れるようになった途端、病院代や水道の修理代として20万円、30万円と北野氏にお金を要求するようになりました。
教育熱心で優しかったころの母からすっかり変わり果てた姿に北野氏も悪態をつくことがあったそうです。
そんな母親が北野氏にお金を乞うようになったのには、ある理由がありました。
母親がなくなる2年前の1997年、北野氏は軽井沢の病院に入院していた母親のお見舞いに行きました。
そのときには、「今度おまえが来るときは、あたしは名前が変わってんだ。戒名がついてるからさ。葬式は長野で出すから、おまえは焼香のときだけくりゃあいい。」と憎まれ口を叩かれ、まだまだ元気そうだなと思ったそうです。
その帰り際、北野氏の姉から「たけしに渡してくれ」と母親から頼まれたと紙袋を受け取りました。
紙袋のなかには、一冊の通帳がありました。
しかも、名義は北野氏の名義。
通帳のなかをみると、そこには母親の年金から少しずつ出したお金と、北野氏に要求していたお金がそのまま入っていたのです。
1円も手をつけられていないその通帳はなんと1,000万円近くになっていたそうです。
北野氏はこの包みを握りしめ、涙が止まらなかったそうです。
芸人というのは人気がなければ無職同然になってしまう商売です。
そんな不安定な仕事にも関わらず、入ってくるお金をほとんどつかっていた北野氏を心配し、貯金をしてくれていたのでした。
北野氏の母親は、
「子どもの貧乏は親の責任。」
「親の貧乏は子に連鎖する。それを断ち切るには教育しかない。」
とおっしゃっていたそうです。
さいごに:嶋村吉洋氏からの学び
ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』ではチャレンジする文化が根付いていると感じます。
その原因は主催者である嶋村氏が多くの失敗をしながらもチャレンジし続ける人生を過ごしているからでしょう。
嶋村氏は最近も映画プロデューサーにチャレンジされ、海外の映画祭にも参加されるほどの成果をつくられています。
今後もさまざまなプロジェクトの立ち上げが決まっているようで今後の活躍が楽しみです。