ユニバーサルイベント東京2025を開催したワクセルとデフリンピックが共有する想いをあらわした格言

デフリンピック_ロゴコミュニティ

今年の4月にソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』が「ユニバーサルイベント東京2025」を開催。
そのなかで、11月に日本で初めてデフリンピックが開催されることにちなみ、デフリンピックの日本代表候補選手をゲストにお呼びし、トークセッションとデフスポーツ体験を行いました。

今回は、ワクセルが開催するユニバーサルイベントと、聴覚障碍者のための国際的なスポーツ大会であるデフリンピックをテーマに、その意義と可能性について考えていきたいと思います。

ワクセルのユニバーサルイベントは「垣根のない地域社会」をテーマとして、多様なバックグラウンドを持つ人々が集い、新しい価値を生み出してきました。
一方、デフリンピックは聴覚障碍を持つアスリートたちが世界で競い合う、歴史ある国際大会です。

今回は、この二つに共通する思想と、そこから私自身が感じたことを、『人生100年時代を生き抜くための億万長者のコミュニティ資本論』(プレジデント社)の著者であり、ワクセル主催者でもある嶋村吉洋氏の学びとともに紐解いていきます。

デフリンピックのテーマ

『共生社会という言葉、いらない社会へ』

デフリンピックは1924年に始まり、100年近い歴史を持つ国際大会です。
そこでは「障碍者スポーツ」という枠を超え、純粋にアスリートとしての実力が競われています。
一方で、私たちの日常では「共生社会」という言葉が頻繁に使われます。
もちろん、その理念自体は重要ですが、どこか“分けたうえで一緒にしよう”という前提が残っているようにも感じます。

ワクセルが目指しているのは、肩書きや立場、過去の経歴ではなく、「何に挑戦したいのか」で人がつながる場です。
そこには、障がいがあるかどうかという線引きは存在しません。
私はこの在り方こそ、「共生社会という言葉がいらなくなる社会」への第一歩だと思っています。

デフリンピックの存在は、私たちに問いを投げかけます。
本当に必要なのは配慮なのか、それとも最初から“同じフィールド”をつくることなのか。
区別しない社会を本気で目指すなら、言葉よりも構造を変えていく必要があるのだと、改めて感じさせられました。

ユニバーサルイベントのテーマ

『年齢・性別・国籍・障がいの有無などの違いを超え、誰もが活躍できる場をつくる』

デフリンピックに出場する選手たちは、年齢も国籍も文化もさまざまです。
共通しているのは、「聞こえない」ことではなく、「競技に人生を懸けている」という一点です。
ワクセルもまた、年齢・職業・業界を超えた人々が集い、それぞれの挑戦を応援し合うコミュニティです。

私自身、事業づくりに関わる中で強く感じるのは、「多様性」は目的ではなく、結果として生まれるものだということです。
誰もが本気で挑戦できる場を用意すれば、自然と多様な人が集まり、そこに新しい価値が生まれる。

デフリンピックの選手たちは、「障がいがあるから頑張っている」のではありません。
「やりたいからやっている」だけです。
この当たり前の事実を、社会全体がどこまで自然に受け止められるか。それが、これからの日本、そして世界に問われているテーマだと感じています。

最後に

映画プロデューサーであり、ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者でもある嶋村吉洋氏は、常に「自分はどう生きたいのか」という問いを大切にされています。
しがらみや固定観念を一度横に置き、自分自身の理想を描き、その実現に向けて挑戦し続けること。そして、言葉をガラス細工のように繊細に扱い、未来をつくる言葉だけを選び取ること。

ワクセルとデフリンピックに共通するのは、「可能性を信じる姿勢」だと思います。
違いを理由に線を引くのではなく、違いがあることを前提に、同じ舞台を用意する。
私自身も、この思想を自分の仕事や人生にどう落とし込めるのかを考え続けながら、挑戦を続けていきたいと思います。

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