新年一発目の今回は、『人たらし』として知られる天下人・豊臣秀吉の格言を紹介していきます。
『戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。』
【出典】Wikipedia 豊臣秀吉
豊臣秀吉はひとをうまく味方に付ける「人たらし」の能力に長けていました。
多くのひととコラボレートすることで戦わずして勝つことや、より大きな成果をつくり続けてきました。
今回はそんな豊臣秀吉の格言からの学びと、同じくコラボレートにより多くの方とプロジェクトを推進しているソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』の主催者である嶋村吉洋氏からの学びを紹介していきます。
豊臣秀吉が天下人になるまで
秀吉は元々、木下藤吉郎と名乗っていました。
秀吉の前半生は不明な点が多いようですが、少年時代に家を飛び出し、職を転々とし苦労してようやく駿河の大名である松下加兵衛に仕えたといわれています。
賢く、気が利いた秀吉は、松下家の金銭出納役を任されるなど出世していきました。
しかし、出世を妬んだ松下家の家臣からのいじめにあい、結果的に追い出されることになりました。
このときの経験から、秀吉は人間関係に最新の注意を払って行動するようになります。
その後、1554年頃(17歳頃)から織田信長に仕えます。
秀吉は、清洲城の普請奉行や台所奉行を率先して引き受けて大きな成果をあげ、頭角を現していきました。
そこから合戦でも多くの輝かしい戦績を残していき、1573年に浅井氏が滅亡すると長浜城の城主となりました。
このころ秀吉は改姓し、羽柴秀吉と名乗るようになります。
1582年6月2日、織田信長が『本能寺の変』で自害し、翌6月3日に、当時毛利氏と備中高松城(現・岡山県岡山市)で合戦を繰り広げていた秀吉のもとにその一報が入ります。
秀吉は信長の死を敵に伏せた状態で、6月4日には、備中・美作・伯耆の3カ国の割譲と落城寸前であった備中高松城城主・清水宗治の切腹、城兵の救命を条件とする講和を結び、速やかに戦を終わらせると、至急京都へと全軍を返しました。
これは『中国大返し』と呼ばれ、約10日間のうちに備中高松城から山城山崎(現・京都府乙訓郡)までの約230kmを踏破した日本戦史上屈指の大強行軍といわれています。
1582年6月12日、秀吉軍と明智軍は京都の山崎で対陣、6月13日に戦が始まり、その日のうちに明智軍は敗走、明智光秀はなんとか生き延び居城を目指しましたが、道中で落ち武者狩りに遭い殺害されました(山崎の戦い)。
このときの明智光秀の短い天下を『三日天下』、山崎の戦いの戦地が天王山であったことから勝敗や運命の重大な分かれ目を『天王山』というなど、この戦に関することばがいまでも残っています。
こうして明智光秀を討った秀吉は、『清洲会議』や柴田勝家との『賤ケ岳の戦い』、徳川家康との『小牧・長久手の戦い』を経て、四国平定の途中で関白の地位を任ぜられます。
1586年には、秀吉は元親町天皇より豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任し、豊臣政権を確立させました。
その後、九州も平定した秀吉は1590年に『小田原の役』にて北条氏を降伏させ、ついに天下統一を果たしました。
「人たらし」豊臣秀吉のコラボレートの力
秀吉は多くの戦で戦果をあげますが、格言にあるとおり、極力戦わず、敵を殺さずに勝利をあげることを理想としていました。
それができた一因として、『羽柴の二兵衛』といわれる竹中半兵衛と黒田官兵衛の存在があげられます。
『三木合戦』や『雁金城の戦い』での兵糧攻めや、『備中高松城の戦い』での水攻めなどは黒田官兵衛の策だといわれています。
秀吉は智略を好み、武力行使による流血と兵の損耗を極力回避したことで、大きな戦力をもったまま戦果をあげ続けることができました。
全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせました。
これほどのスピードで天下を統一できたのは、秀吉が非殲滅主義を貫き、寛容ともいえる態度で毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった多くの大名を助命したことが大きかったといわれています。
そして、これらの偉業を成し遂げられた原因は「人たらし」といわれる秀吉の人心掌握術にあります。
秀吉の「人たらし」エピソードは数多く残っています。
織田信長の草履を懐にいれてあたためたという逸話は有名ですが、それもひとを喜ばせる「人たらし」の能力をあらわすエピソードのひとつです。
先述の竹中半兵衛も秀吉にこころを鷲掴みにされたひとりです。
半兵衛は、斎藤龍興に仕えていた1568年に、主君の稲葉山城をわずか17名の手勢で乗っ取り、半年間占拠するという離れ業をやってのけました。
しかし、龍興の家臣の支持が得られなかった半兵衛は、主君へ城を返却し、謀反の罪の責任を取るため伊吹山の麓に隠棲していました。
その噂を聞きつけた秀吉は、何度もそこへ足を運び、織田家の家臣になってほしいと懇願し、半兵衛を家臣とすることに成功しました。
また、先述のとおり、合戦で功をあげていた1572年には「木下」から「羽柴」へと改姓しています。
この改姓には、当時織田家家臣でちからを持っていた丹羽長秀と柴田勝家を敵に回したくないという思惑がありました。
秀吉は人が喜ぶことを徹底し、相手のこころを掴んでいく天才だったといえます。
戦でも調略をおこない、相手を投降させることが多かった秀吉ですが、相手が承諾できるギリギリの条件を提示することがうまかったのだと思われます。
多くの味方をつくり、敵であった相手をも取込み、コラボレートすることにより大きな力を得た秀吉から学ぶことは非常に大きいと感じます。
さいごに:嶋村吉洋氏からの学び
ソーシャルビジネスコミュニティ『ワクセル』もコラボレートを通して大きな成果をつくっています。
ワクセルの主催者である嶋村吉洋氏は相手のニーズをしっかりと引き出し、それに合わせた提案をすることを心がけていると常々話されています。
そして、嶋村氏はひとに喜ばれることをするということも徹底されています。
ミーティングなどの仕事の場でも、飲み会などのワイワイしている場でも一貫してみんなに気遣いをされており、ひとに喜ばれることをするということをいつも学ばせていただきます。
わたしも多くのひととコミュニケーションを取り、ニーズをしっかりと引き出し、相手が喜んでくれる提案ができるようにチャレンジしていきます。